えみのゆるゆるブログ

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「トイレなんてしませんけど」みたいな顔をしている人のはなし

 「トイレなんてしませんけど」みたいな顔をしている人っていませんか?私昔からずっと不思議だったのが「下品なこと」がなぜあまり語られないのかということについてなんですが、最近少し分かりかけてきたので話そうかなと思います。

 トイレをすること自体は品のないことではないですが(多分)、トイレをすることについて語るとそれは下品なことになりますね。その仕組みがなぜか私には良くわからなかったので、自分なりに場を選びはしましたが、わりとオープンに「トイレした!」ということを昔話している時期がありました。

(一応言っておくと「トイレをすること」は声を大にして語られないこと全般を指すので、トイレに限った話ではないのと、「『トイレした!』を話している」というのも比喩です。)

 簡単にいうと「臭い物に蓋をする」風潮が私はすごく嫌だったんです。厳密には少し違っていて、悪いとされているものをあたかもないもののように扱う人々がすごく苦手でした。だから、あえて語ろうと強く意識していました。でもやっていることは小学生が「う○○!」とか「ち○○!」と言うことと同じだったなーと今になって思います。羞恥心を抱くべきところなんでしょうけど、そういうものは残念ながら今も特にないです。ただ当時の周囲の人に不快な思いをさせてしまったなと深く反省しています。

 

 その当時の私の感じ方はこうでした。「なんで皆毎日トイレをしているのにしてないみたいな顔をして生活しているのだろう?」「どうしてトイレしてるってことを表に出さないの?」。トイレについての話ができないということは、トイレに関する情報が全く共有されないということです。それは品がどうのという問題とは別に、何か危険がありそうでした。その点は今でも確かにそうだと考えていて、共有されるべき情報が共有されない事態というのは実際に起こっていると思います。人々の病気に関する知識の不足がそれに該当します。詳細に触れると話がズレていくのでしませんケド。

 

 話は飛んで今の感じ方に移ると、実は皆「皆毎日トイレをしている」ということは前提として分かっているんだ!ということに私はようやく気づきました。読んでいる人は当たり前じゃないか、と思うでしょう。私もびっくりですよ。そんなアタリマエのことに気づけていなかった自分にびっくりです。

 「『トイレなんてしませんけど』みたいな顔をしている人がいる」というのは、私の錯覚で、悪いものを排除しようとしていたのは(トイレを「悪」だとしていたのは)私の方だった!ということに気づいたのです。そして、トイレをするということをいちいち皆が話さないのは、「皆日々トイレをしている」ということが人間の生活の前提としてあるからだということがようやく分かりました。

 セックスに関して言えば、そんな単純なものではないかもしれないです。まだ上手く言葉にはできませんが、性の問題についてもっと語られるべきことは確かにありますが、セックスという二人の体験について語るべきかということには議論の余地がありそうです。秘めておくことに何らかの意味、価値があるんだろうなというのが最近の肌感覚で分かってきたことです。確かに人に聞かせたからといって何も減らないじゃないか、みたいなことは簡単に言えるけれど、例えば人に映像として見せてしまうと、壊れてしまう何かがあるのだろうな、文章に起こしてしまうと、壊れてしまう何かがあるのだろうなということが本当に今更なんですが、私にはようやく分かってきました。ここもっと上手く説明できたらいいですね、今後の課題にしておきます。

 

 なんだか最近皆にとって当たり前とされていること、つまり常識全般において、私が良く分かっておらず、本当にやっと身をもって分かったぞということが多々あるんです。そういうことに気づかせてくれたのは、周囲の人たちと何よりパートナーの日々のお話によるものかなと思います。周囲の方々本当にありがとうございます。そしてパートナーにはお礼をここでいうのはおかしいので本人に伝えておきます、と思ったけど、伝え方が難しいのでこのブログを読んでもらうことにします。いつもありがとうございます。

 

 上手くまとめきれなかったけど、今日はこの辺で。とにかく「皆トイレしてるんだ!」ということに気づけて本当に良かったです、まる。